サイコパスの研究(4):エンパス

「サイコパス」というのは人間社会では非常に利己的で反社会的存在だが、そのサイコパスの対極には「エンパス(Empath)」がいる。辞書を見ると「エンパス」というのは他人の感情を読み取る人、という意味だというが、行き過ぎて他人の感情と同化するほどの人、言い換えれば「同情」をする人のことを言う。こちらは、サイコパスではないが、Aという人間に同情すれば、Bという人間にも同情し、Cにも。。。となるときりがなく、結果として自我の崩壊を招く、という意味で、非常に問題がある、とも言われている。

さらに現代は情報社会であり、昔であれば遠隔地の出来事など、ほとんどわからなかったが、現代ではニュースで見るだけではなく、ネットでリアルタイムに現場の状況が伝わってくるなど、遠隔地であっても、多くの情報ルートから、その人に情報が伝わってくる時代となった。エンパスの人は、例えば高速道路での交通事故の情報を得ると、その事故にあった人に「一瞬の出来事でなにがなんだかわからず、大変だっただろうなぁ」という、あたかも自分がその場の被害者の当事者であるかのように、心を痛める。インターネットの発達は、エンパスの苦悩を増やしているのかもしれない。

サイコパスと比べると、エンパスは良いもののように見えるし、社会的に望ましいものとも思えるのだが、それが極端になると、今度はその人自身のこころが病んでしまい、正常な社会生活が送れなくなってしまう。いわゆる「ふつうの人」というのは、サイコパスとエンパスの両方の特徴を持っていて、それを時と場合によって無意識に、あるいは意識的に、使い分けており、心のバランスをとって、毎日を暮らしている。

サイコパスは大きな問題で、これまで社会の裏側に隠れていて、現代では非常に問題とされているが、その逆のエンパスも、これはこれで問題がないと言えないものなのだ。私たちは、「心の平静を保つ」のが非常に難しい時代に生きている、ということだけは自覚しておいたほうが良いのだろう。

 



サイコパスの研究(3):サイコパスはなぜ生まれるか

ところで、ジコチューの最高峰、「サイコパス」はなぜ生まれるのだろうか?私の意見だが、どうやら、それは、人間がもともと持っている「種族保存」「個体保存」の性質と、250年続いた世界的な「経済成長」がそれを産んだのではないか?と私は思う。そして、そのサイコパスという性質は、現代社会においては、現代社会を破壊するものとして機能し始めたので、問題になっているのではないだろうか?

【「冷酷」のルーツ】
まず、サイコパスの気質として「冷酷」がある。これは「容赦ない」という表現をされることもあるが、要するに人間は社会を作り、群れを作る。その群れを外部の敵から守るために、必然的にその群の周辺で敵と直接対峙する場所では、敵に対する「冷酷さ」が必要になったのではないか?逆に言えば、人間の群はそのまとまりを作るために、サイコパスを一定以上の数、必要としたのだ。群の人数が多ければ多いほど、群の周辺にいる人間の数もそのボーダーの長さに応じて増やさざるを得ず、サイコパスが群れの中(周辺)に増えていく。

【社会の広がり】
とは言うものの、現代の人間の社会は、250年間続いた産業革命以来の人間社会の豊かさの追求によって、グローバル化という頂点を迎えている。この人間の歴史の流れは、人間の群れを、地域の中での集落という形から、地域的な組織へと変え、今また、地域を超えた意思疎通の手段を持つことによって、地球上には人間の群の「周辺」がなくなった。別の言い方をすると、人間の「群」の周辺を守ってきた「防人(さきもり)」に必要とされていた気質である「サイコパス」は、群れの「周辺」の喪失によって行き場を失い、社会の中へと分散していくしかなかった。

【社会の中のガンとなったサイコパス】
以上の2つの条件が現代において重なった。それまでの人間の歴史の中で培われ肯定されてきた「サイコパス」は、社会の内部において、社会の建設者としての気質を持っていない。むしろ、防人の気質としてのサイコパスは、社会の内部にあって、社会を破壊するガンのような存在とならざるを得ない。群の内部に入った防人は、それまで評価されていた気質を、そのまま安定した網の目のようなシステムが張り巡らされている社会の中で発揮する。結果として、その気質は「サイコパス」という名前を付けられ、社会のガンとなる他はない。それは人間社会全体から言えば、再び人間の社会に危機が訪れ、群れとして地域的な塊を再び得る時代になる危機感がまだ残る人間社会の中で、「再び必要になることもある気質かもしれない」という判断のもと、一定以下の数で温存もされるのだろう。

私は、おそらく、サイコパスというのは、地球全体を覆う現代社会の網の目のようなシステムでは、もはや必要なくなった「群の周辺を守る防人」の成れの果て、という、そういう人たちのことなのではないか?と思うのだ。かつて人間社会が群としての独立を守るために必要とした「群の周辺の防人」が、社会の中では「社会の破壊者」として機能する。それを「サイコパス」と呼ぶのではないか、と、そう思うのだ。

 



「サイコパス」の研究(1)

このところ、仕事などで当たる人に、「サイコパス」らしい、という人が何人かいた。そういう人の周囲からは、どんどん人がいなくなっていく。

考えてみれば「サイコパス」というのは荒涼とした精神世界しか持てなかった、という意味でやはり「可哀想」なんだな、とぼくは思うよ。自覚が全くされない、精神的な「欠陥」があるんだな。生まれつきの身体的な欠陥とか、そういう障害を持って生まれた人に、サイコパスが多いのは、自分の欠陥によって、精神的に大きなダメージを受けたトラウマがそうさせていることもある。その人が他人の優しさや情に反応して変わることは永久にないのはわかるし、できればつきあわないほうがいい、という判断になるのは、しょうがないところがある。こちらも社会生活を続けて行かなければならないからね。

でも、国とか自治体の行政などの制度で、そういう人を救うことは、それでも必要なんだと思うのね。サイコパスでも泥棒でも、人間は人間だからね。情がこもっていない反応しかなくても、それでいい、ということをしないと、行政そのものが「サイコパス」という「病」に陥ってしまう。それでは、いざというときの行政の役目が果たせないしね。それが国とか行政に必要な「無償の情の表現」でなければならなくて、それがあって行政と言うわけでもあるんだな。

たとえば「欠陥のあるその人」には、母親もいるだろう。親戚もいるだろう。本人には自覚がなくて、死ぬまでその病気の自覚がないから、わからないので、母親も含め、周りはそんなことは本人に一切言わないが、本人は「サイコパス」という精神的な「障害」なんだね。そういう子供を抱えることになった親、という立場になったらどう思うだろう。いや、きっとそういう人は多くいる。母親はそれが自分のことではないけれども、血を分けた我が子である以上、情もわくだろう。しかし、その情は子供に届かないだろう。でも、できればなんとかしたい、と思うだろう。

それでも悲しんではいられない。返ってくることのない情を注ぐのには理由はない。ただ愛おしいからそうするのだ。それが外から見たときに悲劇に見えたとしても、そうするほか、周囲の人間にはできることもないし、することもない。届かない気持ちを持つこともまた、人間として生まれたがゆえの生き様の一部であって、それを恥じることも、いやがることもない。

「精神病質」の1つである「サイコパス」は、なによりも本人の自覚がない、という一点において、いろいろな意味で厄介なことを周囲に生じさせるのだが、一般社会とは違う精神世界に住んでいる、という自覚がない本人は、結果として不自由な社会生活を余儀なくされても、当然、自覚がないのだから、改善ということもできない。

「サイコパス」の問題とは、実は我々が生きる社会全体の問題である、ということは、以上の理由によるんだな。人間という不可解なものが、そのまま目の前に現実としてある。それが「サイコパス」でもあると思うんだね。解決できない問題かもしれないが、納得はしないと先に進めない。