子供にプログラミングを教えるのであれば

最近は学校教育でプログラミング必修、とかなるらしいので、あちこちでその話題を聞くんだが、正直なところ、この程度の理解では、そりゃ面白くもなんともなかろうなぁ、と思うわけですよ。

まずね。人間が物事を理解するのは「分析(Analyze)と統合(Integration)」という基本があるんだぜ、ってことがわかってないんじゃないかと思うのね。これは西洋の科学の基本のところなんだな。日本語で「科学」って訳した人、すごいねぇ。ちゃんと本質をわかってます。西洋の科学の基本概念は「ツリー構造」なんですよね。ほら、フォルダとファイルなんて、そういう感じでしょ。コンピュータのソフトウエア世界そのものが、この思想で出来てるわけです。プログラミングでいえば、クラスとか、構造化とかって、そういうことだよね。

「科学(Science)」ってのは、「科」する学問なんざますよ。「科」ってのは、ほら、草木の分類とかで「~科~目の」なんて言うじゃないですか。あの「科」です。その意味は「分けて、分けたそれぞれに名前をつける」ことなんです。そうして分けたそれぞれのものが別のものだと認識する。そして、わけられたものも、またさらにわけられて。。。。で、結局どうなるかというと、わけられたものの構造は「より簡単になる」わけで、人間が理解しやすくなる(はず)って言うことなんですね。だから「分ける」「分けたものに名前をつける」「名前をつけることによって、わけられたものどうしが別のものであると認識する」わけです。分かった?なんつって。こうやって、ツリー構造の幹から枝に向かうわけですね。概念的にね。これを「分析(Analyze)」と言うわけですな。

で、分けて、違うものと認識する、というのが前提だから、同じ名前のファイルとかって、同じフォルダの中の同じレベルの場所に作れないようになってるよね。そういうことだよ。昔のコンピュータサイエンス関係の本には「named」っていう単語がいっぱい出てきた。「名前が付けられた」ってことね。これが重要な意味を持つのは、「分類」がそれによってなされるからだね。

反対に、このツリー構造の枝で別れたものを組み合わせて幹の方に向かう、複雑なものを作っていくのは「統合(Integration)」っていうのね。

近代から現代に至る「科学」のそれは根本的な哲学なんですわ。コンピュータの構造とかプログラミングも、要するにそういうものが根底にあって、それで作られているわけね。まずはさ、子供にここを理解してもらわんと、困っちゃうわけです。

しかし、だ。この「科学」という人間の叡智も、ビックラこいたのが、生物の世界。言い換えれば、自然科学のほとんどだわな。分析していきゃわかるだろ、らくしょー、とか思って分けて分けて分けて分けまくった先には「C,H,N,O」っていう4つの元素しかなかった。いくら分けても、人間てものがどうできているか、まるでわかんなかったんだね。逆に、わけていってシンプルにしたら、かえってわかんなくなっちゃった。この方法じゃわからん、ってことがわかったんだな。人間とか生物の秘密は、実は分けてもわかんなかった。「生物の秘密」は実は「分けてもわからず、その組み合わせにあった」から、分けて分けて分けても、かえってわからなくなっちゃったんだ、というのが、やっと最近わかってきたわけですね。

まぁ、そういう「生物学」の世界の話はともかくだな、その前段階としての「西洋的科学を支える哲学」ってのは、難しい概念でもなんでもないので、まずはそれを教えて欲しいわけですよ。それがわかると、みんなそのアナロジーでできてるのがコンピュータとかプログラミング言語なんで、どんどんわかっていくんだよ。そう「ツリー構造」という概念がなぜ西洋の科学の本質として使われてきたか?それでコンピュータがいかにできているか、ってのを学んで欲しいなぁ、と思うわけです。

 


自然とはなにか

A sound of water

A sound of water

あまりみんな話題にしていなくて、私も気が付かなかったのだが、米国の自然科学の専門誌「Nature」がこれまでにない厳しい口調で、日本政府の原発事故対策を批判している。「Nature」は一般の人にはあまり馴染みはないかもしれないが、科学全般に関して、世界で一番権威があり、かつ研究者に知られている雑誌として超・有名な雑誌だ。この雑誌に論文が載る、ということは「世界の研究者に認められた」ということに等しい。それだけ掲載される論文は精査が厳しく、一般記事もそれに準じている。

その雑誌で日本政府が批判されているというのは「ただごとではない」と考えていい。日本の中にいると、日本のマスコミが出す日本語の情報しか入ってこないからこういうことにはなかなか気が付かないと思うが、「Nature」の記事は大きなインパクトを世界の研究者や企業に与えていると言っていい。

覚えて置いてほしいのは、人間や人間のやることとは、しょせんが「自然の一部」にすぎない、ということだ。

人間は人間どうしで社会を作る。その社会が大きくなると、自然を自分たちでどうにでもできる、という「おごり」が自然と生まれる。世界は自分たちのものであり、誰の命令も受けないし、誰からも影響されずに、自分の好きなことができる、とついつい思ってしまう。また、組織が複雑化し、トップは現場を知らない、という状況も増えていく。

福島の原発事故だって、なんと緊急炉心冷却装置などは取り外されていたという。「こんなものなくても大丈夫」ということだったらしい。どう考えてもこれは「事故は起こるはずがない」「起こってほしくない」という「願望」であって、自然の法則とは無縁だ。

「人間(社会)の都合」が「自然の法則」に優先されてしまった。

原発事故はそのために起きた悲劇なんじゃないだろうか?

「1+1」はどうがんばっても「2」にしかならない。でも人間の願望は「3」にしたい。だから、「3」ということにしておこう。みんなそう考えるんだ。いいな!と、権力は言うのだが、それは「1+1=2」という自然に反しているから、結局はクライシスがやってくる。そして、人間系が強すぎる社会では、このクライシスに見舞われてさえ、まだ「1+1=3」と言い続け、社会はさらなる破綻に突き進む。しかも、それは「人間どうしの合意」の世界なので、誰も「人間より大きくて怖い自然」を忘れても、なんとも思わない。

我々は本当は破綻の崖っぷちにいる。「人間系」を大切にするあまり、私達をとりまく寄り大きな「自然系」を忘れ、人間より大きな力を持つ自然を見くびったために起こった悲劇を抱えたのだ。

「自然」というと、緑がどうした、太陽がどうした、ということを言うが、そういうものではない。冷厳な「法」が支配するのが「自然」である。その本質は「1+1=2」ということだ。これ以外の答えがなく、これ以外の答えは、どこかの国の主席だろうが、天皇だろうが、総理大臣だろうが曲げられない、ということだ。人間系をはるかに超え、全人類が束になってかかっても、「1+1=2」以外の答えは認められない。これが「自然」の本質だ。

人間の社会は、その自然の法則に逆らい、人間系などという小賢しいものを大事にすべきではない。人間を自然よりも優位に置いたとたん、ぼくらは殺される。人類の未来をなくす。風の渡る音に耳を澄ませ、自然に帰る、ということはつまりそういうことだ。それは私達のいのちに直接かかわっている。それが「自然に耳を澄ます」ということだ。

だから「科学者」は、現代の「司祭」として、自然系と人間系の橋渡しをする重要な役割を負う。人間の社会の存続を司る存在である。そういう自覚が必要だ。「Nature」の記事にはそういう「意味」が根底にあるのだ。科学者は自然の言葉を人間に翻訳し人間社会が自然に逆らうとまたたくまに自然の逆襲を受けて崩壊することを、人間の社会に警告する役割を背負っているのだ。

http://www.huffingtonpost.jp/2013/09/07/nuclear_error_nature_n_3884364.html

◆よろしければ、こちらの記事もどうぞ:
「科学者や研究者はなぜ頑固で扱いにくいのか」
http://report2.mita.minato.tokyo.jp/article.php/20110413074055765
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