「昔は良かった」は言わないほうがいいでしょうね。

日本人だって20年以上前は、外国に行くと嫌われていた。

1970年代では、「エコノミック・アニマル」「ノーキョー(当時は農協の団体旅行で外国に行く人がいっぱいいた)」などは「マナーの悪い日本人観光客」を指した言葉だった。その当時は日本は「高度経済成長」だったんですよね。Panasonicの製品だって、「あそこは他の売れたものの真似ばかりする」といって「松下電器」をもじって「マネシタ電器」なんて悪口を言われていた。大陸中国のものは日本製品の真似が多い、って日本だってその当時は米国や欧州のものの真似をした製品がとてもたくさんあった。

いま大陸中国は再びのバブルの時期に突入しようとしていて、下降線の日本よりはるかに景気がいい。上海に行けば、既に空港連絡鉄道にはリニアが使われているし(よく止まるけど)、ニューヨークもかくやと思わせる上海の摩天楼の会社に行けば、会議用にとか言って、会議室には60インチ以上のでかい4Kテレビが当たり前のように置いてある。今、なにかと「昭和」がブームらしいが、昭和の時代といっても、ぼくの子供の頃の記憶にあるのは、1960年代から1980年代くらいまでで、「昭和」の一部にすぎない。そう。その時代は日本人にとって「夢の時代」であった、と言っていいだろう。

日本の高度経済成長期は、日本史を紐解くと、日本という地域で生まれて育った人間にとって、おそらく未曾有の好景気の時代であって、それは、1960年代はじめから、だいたい1980年代半ばくらいまでだ。それでも20年以上は続いた。この時期は米国も「黄金の60年代」と言われた時期に重なるんだが、要するに世界中が景気が良くて、日本もその恩恵に預かっていた、という感じだ。ぼくが物心ついたあたりから、2000年近くまで「今年より来年は必ず良くなる」ことを、誰もが疑わなかった時代だった。年末に除夜の鐘を遠くで聞き、家族みんなで、年越しそばを食べながら、テレビでNHKの紅白歌合戦を見つつ「来年はどうなっているかねぇ」と言うのはため息ではなく、希望を含んでいて、それを疑うことはまずなかった。

バブル経済とは、そういう高度経済成長期の最後に咲いた大輪の毒花であったように、今は思える。バブル経済はその名前の通りで、いつまで続くわけもないが、その当時は「株は上がり続ける。土地は高くなり続ける」と言われていたし「いま、投資をしないのは人間じゃない」とまで言われたときもあった。そうは言うものの、日本人にはまだ太平洋戦争のことを覚えている人がいっぱいいて、そういう時代の風潮に流されない堅実で賢い人も、それでもかなりの数がいた。バブル経済は必ず短期間で崩壊する。その崩壊は緩やかではないから、その変化についていけない人も続出した。

今の日本を見回してみれば、その当時から残っていたものが、どんどんなくなっていくのが見えるだろう。それは日本人にとって、暖かな日差しの中でお腹を一杯にしていた時代だ。その時代を「昭和」という名前とともに懐かしく思い出すのは罪ではない。しかし、後継の子どもたちに、「昭和の時代」をひけらかし「あの時代は良かった」などと思い出話をするのは、自己満足ではあっても、後継者のためにはなんにもならない。

私は最近、IoTのセミナーとかに呼ばれることがある。「観客」を眺めると、若い人間よりも白髪の年寄りが多いことに気がつく。そこで私が必ず最初に言う一言がある。

「もう5年以上前の情報はなんの役にもたちませんから。そういう話は一切しないでいただきたいし、私もしない」

それでも、質問の時間になると、おじいちゃんが手を挙げてなにか話をする。質問の時間なのだが、質問ではなく、意見表明である。それでもいいと思っている感覚が既にずれている。おれもそんなことはもっと大きな仕事でやったことがある。先輩の持つ一家言を公の場で言って偉そうにしていたいだけだろう。そもそも、そういう人には公の場は与えられず、こういったセミナーの質問の場が自分の意見表明の場なのだ。それしかないのだ。意見表明の場としては、BLOGでもSNSでも今はある。そういう、この世界についていけていないのだ。そういう人は「自分の存在意義を示したい」というだけだ。他に意味はない「挙手」であることは、その人の手が上がったときからわかる。

「私がそれをやったのは。。。」と来る。
「それ、何年前の話ですか?」と聞き返す。
「私がやったのは15年前。。。」
「最初に言った通り、5年以上前の情報はなんの役にもたたないんですよ」
「違うのですか?」
「ええ、全く違います」

話が通じない。それで終わりだ。

時代は刻々と変わっていく。それについていけない人、それに必死でついていく人。様々だ。

そして、日本の若い人間はあれだけ「嫌韓」「嫌中」などと言われても、日本の後を追って日本よりも豊かになりつつある、韓国や中国に向かう。今や「韓流」の日本でのメインプレヤーは、おばさんではない。高校生や大学生である。


「火の用心」の声が聞こえる

拍子木を打って「火の用心!」の声がする。懐かしい、というよりも、それは日本のなにかが終わった音に聞こえる。

ぼくが生まれたとき、日本は高度経済成長という、日本の歴史で見ればそれまでに経験したことのない「好景気」が始まったときだった。今日よりも明日という日が良くなることを誰もが疑わなかった。

その経済成長は、田舎から多数の都会への人の流入を産み、ぼくの父母もまた、そういう地方から出てきた男と女だった。東京で結婚してぼくが東京で生まれた。

やがて石油ショックあたりから、経済成長の成長率が鈍化し、その後、札束が舞うバブルの時代。そのときはぼくはもう社会人だった。毎月のように仕事でアメリカに行った。やがて経済成長の時代は終わる。「失われた10年」がいつのまにか「失われた20年」になった。

私だけではない、全ての日本人が、思えば立ち止まることも許されない毎日が連続し、ただただ前に進んでいた。

「火の用心!カチカチ!」

子供の頃、聞いたその声と音は、耳に残っている。それが高度経済成長とともに、しぼんでいき、聞くこともなくなった。私が住んでいた東京の郊外には田舎から出てきた人たちが多く住みはじめ、小学校や中学校ではプレハブと呼ばれる簡易建築の教室が増えた。子供が増えたからだ。そして、「よそ者」が増えると、「火の用心」の声の代わりに、若者の飲み会帰りの歓声が聞こえるようになった。

いま私は東京の山手線の内側に住んでいる。その名前らしからぬ、庶民の街。戦災で焼け残った地域。ここも高齢化が進み、たくさんあった町工場も今は数えるほどしかない。その街の年末。静かな住宅街のこの街。シャッターで閉ざされた小さな商店街に再び拍子木の音が蘇る。

「火の用心!カチカチ!」

2016年師走の夜に響くその声と音は、日本という地域の狂乱の高度経済成長期という、日本の歴史はじまって以来の、束の間の繁栄の期間の終わりの音のように、私の耳に響いている。暗く寒く静かな、東京都心の住宅街の夜である。

「火の用心!カチカチ!」