正月は4次元の寂しさ

子供の頃から、毎年の年末年始は今ひとつ好きになれなかった。いつもの街の活気が大晦日に最高潮となって、正月開けて7日くらいまで助走期間みたいにだらだらと新しい年の最初の日々が始まる。

気がつけば、正月3が日はなにもかも休んでいて、その数日だけ、東京都心もゴーストタウンになる。誰もいない。やがて戻ってくるであろう喧騒が、永遠に戻らないものであるかのような、そういう錯覚を起こしたら、もう気持ちはパニックに近い。「みんなどこへいったのだ?」「ぼくはなんのために生きているのか?」そんな気持ちが沸き起こる。「この先、社会を失った自分はどうなるのか?」そういう不安も覆いかぶさる。人混みが恋しく、喉の渇きを覚える。やがて返ってくるであろう喧騒のときを信じられない自分がいる。まるで世界核戦争の後の廃墟ばかりの世界に一人降り立ったような、そういう底の深い虚しさを感じるのだ。

正月とはぼくにとってそういうときだった。だから、ぼくは正月が嫌いだ。今日と同じ明日が、明日にはやってくる。そういうことを無邪気に信じられる人たちがとてもうらやましかった。

このテンションの弛緩を楽しむ、という人も多いのだろうが、ぼくは一年中突っ走っていたいほうなので、この弛緩が好きではない。しかもクソ忙しくなる時期に年賀状を書く。正直なところ、このSNSやインターネットの時代に年賀状なんて必要ないと思い、昨年は一気にやめた。

多くの人は「生きている寂しさ」を社会を構成している自分のまわりに他人がいないことで感じ、他人と一緒にいることでそれを癒やすだろう。ぼくは「生きている寂しさ」を「時間」で感じている。そういう違いはきっとあるんだろう。ぼくはこれを「4次元の寂しさ」と呼んでいる。

周囲には亡くなる方も多く、いただいた喪中のはがきを横に置いて、年賀状を書くという行為そのものが、なんだか悲しみを増す行為にさえ思えてきた。しかし、「生き残る」ということはおそらく、その寂しさに耐えて生きることなんだろう。いや、生きるとはおそらく、確実にそういうものだ。

時代は移り変わっていく。その移り変わりには、そうあってほしい、というものもあれば、それはいやだ、というものもある。しかし、一人ひとりのそういう「希望」とは全く別のところで、時代は変わる。

年末年始とは、私にとって、そういうことを感じる時期なんだろうね。もう一歩上に自らを置いてみて、今年は年末年始の変わりようを生きてみたい、と、そう思うのだ。