「5年以上前の情報は役にたちません」

現在70歳を超える経営者とか技術者の方、退職した方などとお会いすることが多いのだが、なぜか自慢話ばかりが多い。他の話をしているはずなのに、突然それが自慢話になっているのに、自分でも気がつかない。その方々は自分がスーパーマンみたいになんでもできる人間で完璧な人間で、自分以外はバカばっかりだ、みたいな言い方をするんだな。どう考えても、そんなことはないだろう。

その方々の自慢話の中では、「自分が優れた人間であるから結果が出せた」と言う話に終始するんだけど、それ、周辺の環境が良かったから、ということは話さないか、あるいはそういう認識がないんだね。つまり、歴史をちゃんと勉強していないから、自分が歴史のどこいらへんにいるのか?ってことがわかってないのね。それでいいと思ってるんですよ。

戦争ばかりでどうしようもない環境ってのも昔はあって、その時代にいくら頑張ってもダメなものはだめでしょ、ってことをわかっていないんだな。日本はその昔、間引き、姥捨て山、そういう話がゴマンとあったところですよ。特に日本の歴史を見ると、日本の戦後1960年代から1990年代までは、日本という地域の歴史の、おそらく最初で最後の素晴らしい発展があった時代なんだね。これは世界経済の歴史を見ても、ほぼおなじ頃に「先進国」の礎がみなできている。日本はその先進国の端っこに偶然にいたに過ぎない。

そこでがんばったことは、おそらくかなりの確率で成就したわけで、そういう時代に生まれた幸運というものは必ずある。でもその幸運に感謝の言葉の1つもなく「おれはすごかったんだ」という人の醜さは、自分を映す鏡がないとわからないものなんでしょうね。その鏡は「歴史」にあるわけだが、その歴史を知らないんだね。

だから、そういうおじいちゃんには、幻滅する。でも、その人が高齢だから幻滅するんじゃない。自分が生きてきたこの幸運な時代の環境についての客観的な認識が無いから、その幸運に感謝する、ということなしに、自分の自慢話を無自覚に始めるから、幻滅するんですよ。そういうおじいちゃんたちを見ると、「あぁ、人というのは愚かなものだな」と言うつぶやきが漏れてきて、「自分はもっと勉強して幸運に感謝して生きよう」って思うんだね。

この前、韓国の話をしてくれ、というので、お話に行った。ぼくは直近で韓国の大学の教授をしていたから、軽い気持ちで行ってきた。最初に「皆様も韓国でお仕事をしたりしたときがあったでしょう。でも、5年以上前の情報をお持ちなら、それはいま一切役に立ちません。だから、そういう話は最初から頭から消してください」と言ってから、韓国の話を始めたんだな。最初に言っておいたにもかかわらず、ぼくの話が終わったら「俺が行ったときはこうだった」みたいな自慢話がしたくてしょうがない、不良老人がいっぱい湧いてくる。だから、最初に言ったでしょ?って言っても聞いてないんだな。耳が遠いのかも知れないけどね。人間は自分が見たいことや聞きたいことだけ見たり聞いたりする、ということだね。そういう人たちを見て醜いと思ったよ。

一方、私が他のところで付き合っている高齢の方の一部の人は、謙虚で、「ぼくらの時代はそういう時代だったんです、ってこともあるんでしょうね」と、必ず付け加える。「私は生きているのじゃなっくて生かされている」とか、自分のことをことさら偉く言わない。でも、ぼくは知っている。その人が米国の仕事から帰ってきたときに、なんの受験勉強もせずにTOEICの試験を受けてみたら、満点に近い成績だった、ってことを。それだけじゃなく、日本の某企業で大きな仕事をいくつもこなしてきていて、でもそのことは多くを語らない。在職していたときの役職も言わない。でも、その人がそこにいるだけで、それが具体的なものではなくても、よくわかる。そして、今を楽しんで生きている。

優秀な人とはそういう存在なんだな、というのが、近くにいてよくわかる。そういう人は多弁ではない。偉ぶらないし、自分の仕事は「当たり前のことをしてきただけ」というだけで、多くを語らない。前にいるだけで、自然と自分が素直になるのがわかる。ウソをつけない。自分を大きく見せる必要もない。安心して近くにいられる。

高齢者といっても、いろいろな人がいるものだな、というのがぼくの思いだが、自分はやはり、しっかりと歴史も勉強して、この先を楽しく生きていたい、と思う。人生の師はぼくにはいない。でも、目標となる生き方をしている人には会った。それは貴重な体験である、とぼくはいつも感じている。