「法人」と「人工知能」

亡くなったホーキング博士も「人工知能が人間に害する可能性がある」ことを警告していた。米国では、第二次大戦のときに亡くなったルーズベルト大統領は「企業が政府を凌ぐ」ことに危機感を持った。現代では後者は「Corporatism」として知られている。

私は「人工知能」というものはもともと無く、それは現代のコンピュータそのもののことを言い換えているに過ぎない、と思っているが、その議論はここではひとまず置いておき、おそらく一般的にわかりやすいであろう「人工知能」という用語をここでは使うことにする。

人間が自ら作った「人間みたいなもの」は、人間と同じ成長の過程を経ずに人間のように振る舞うことを、人間社会の中で許容されている。企業は「法人」という人間を構成員としてできた「機械」のようなものとして。人工知能は「機械で作られた擬似的な人」として。どちらも人間が作ったものだが、人間に似ているものの、人間と同じ成長過程を経てそこにあるものではないから、人間と完全に同じというわけにはいかない。

別の言い方をすれば、それは「人間ではないが、人間のために、人間に近く作られた」「モノ」であって、それを「人間」と同じ扱いをこの社会でするわけには、本来はいかない。それは、人間社会で生きる人間自身の子供のときのようなもので、「不完全な人間」であり、「人間である」と言うには、どこか大きな「欠陥」を抱えている。

それでいて、それが作られた目的は「人間社会をより発展させ強固にさせるもの」だから、どこかに人間以上のパワー(破壊力も)を持っている。言い換えれば、「企業」「人工知能」は、同じ子供でも、ジャイアンみたいな大人もてこずる暴力を行使できる子供のようなものだ。

だから、私たちが「人工知能」に漠然と抱く不安はそこから来ている。「企業」は、その問題点を「Corporatism」として、意識され始めているが、人工知能のそれは、まだ漠然としたものだ。

人が人のために作った「フランケンシュタイン」の示した暗喩が、現代の社会では見えやすいものではなくなっている。

「人工知能」「企業」。彼らに人間社会の大人になる学習をいかにさせて育てるべきか。あるいは、壊して作り直すべきか。

 


 

「企業主義」の蹉跌



世界における現代の大きな問題は「Corporatism」であろう。日本語に訳せば「企業主義」。それは資本主義でもなければ、社会主義・共産主義でもない。これをあらゆる階層の人が意識することが、人間の生存に重要な時代になったのだ。検索エンジンでも「Corporatisum」で検索すると、多くのトピックや動画が引っかかる。欧米では当たり前に議論されている、大きな問題なのだ。

現代における「企業」は法の上で定義されている「人」、すなわち「法人」である。それは「人」である以上、人としての倫理や文化の保護や、常識を持つ必要がある。なぜならば、それが「人」であれば、「人」は人の社会のメンバーの一員であるし、そうでなければならないからだ。それらのものが、人間社会に新しいメンバーとして入った「新人」である「法人」には、不十分な教育しかされてこなかった、という事情がどうやらある。企業、法人は、人間であると認められながら、人間としての教育を受けてきていないため、人間の歴史を知ることもなく、人間が長い歴史の中で培ってきた文化や倫理なども持っていない。「法人」とは「人工知能」「ロボット」のようなものだ。これから人間が人間としての教育をしていかなければいけない存在である。

「法人」は、人の世の中に生きる「人」である以上、人の世の中にある「明文律」にはもちろん従う必要があるが「不文律」にも従い、人の世の良き発展のために生きる義務が生じる。しかしながら、誕生してまだ200年ほどの歴史しかない「法人」は、短期間に非常に大きく成長したその体躯とパワーに比べ、精神がまだ成熟していない「子供」であり、心身の成長にアンバランスがある。それは別の言い方をすれば「モンスター」ということになるだろう。

大きく力のある企業はしばしば、日本では「ドラえもん」の「ジャイアン」に例えられることがある通り、乱暴を働いても、反省するということがなく、それが人間社会を破壊するものであっても、自我の自覚もなく、それを振り回し、他人の迷惑を省みることもない。加えて、従来の人の世の中をある程度知っており、そのパワーにあかせて、人の世の仕組みに介入し、自らの自我を、その強力なパワーで通そうとする。

人が作った人ではない強力なパワーを持った「人」。それが現代における「法人」である。

人間が意識して作り、人間を部品として作られ、人間の世の中で人間の一人として作られたにもかかわらず、私達人間は「法人」の幼児教育に失敗し、いま、私達はそのツケに悩まされているのだ、というと言い過ぎだろうか?

私達は自分の子供として産み落とした「法人」が、まさかこんな短期間に、人間社会の良き一員としてではなく、人間社会を脅かす「モンスター」として育ったことを、後悔している。しかし、間違った育て方で肥大化したそれは、現実に私達の社会を破壊し始めている。

私達は「法人」を殺し、今いちど、新しい育て方で、新しい「法人」を作るべきだろうか?あるいは、今ある「法人」を、「良きモンスター」として、育て直すべきだろうか?

私達は今、その判断の困難さだけではなく、その判断と実行の結果にも恐れおののき、かつ、実行するとしても、その困難さを考える。そのため、なかなか判断ができずにいる。潰すのか?飼いならすのか?これからの経営学というのは、おそらく、その視点から考えられなければならないのではないか。

それはおそらく「企業倫理」などという言葉に閉じ込められるような小さな問題ではなく、その出自に遡って議論し、これから我々はこの「モンスター」を抱えた人間社会をどうすべきか、という現実の問題として、議論し、答えを出し、実行していかなければならない、そういう問題なのだろう。