【大きな迷惑】Facebookで他人が読めない記事をシェアする人

最近はネットのリテラシーがない、という人がネットを使って大間違いをして気が付かない、という人が非常に増えた。そういう人ほど、「自分はネットについて詳しい」と思い込んでいたりする。いい迷惑である。一例としてはFacebookなどでの外部記事のシェアがある。以下の例のどちらも、それをする人には悪意はない。しかし、結果は「この人には近寄らないでおこう」ということになる。だんだんと人が離れていき、やがて誰もあなたのところには残らなくなる。

【動画をなにも解説せずにシェアする人】
なんの説明もなしに、動画をシェアする人がいる。動画を見るには、時間がかかる。つまり、それは他人の時間を奪う行為。この意識を持てば、たとえあなたがヒマをもてあましている人であったとしても、全く違う価値観を持つ他人に同じ動画を見ろ、とは言えないはずだ。「なんだこの動画は。時間の無駄だ」と思って怒ることもある。人間が一生に持っている時間は有限である。であれば、それが数分であろうと、その人が無駄に思える時間を奪う権利は他人にはない。「私は価値があると思っていますが、ぜひこの動画を見ていただければと思います。XXについてです。全編でX分あります」程度の冒頭言があれば、「見ても面白くなかった・無駄な時間だった」と思っても、その人への敵意は湧かない。シェアした人が、価値観の違う他人を思いやる気持ちを持っていることがわかるからだ。そういう人となら、自分と価値観が違っても、付き合う意味がある、と思える。その人とつきあえば、豊かな人生をおくることができる、とも思えるからだ。

【登録しないと読めない記事をシェアする人】
もう1つの馬鹿の典型例は、なんのダイジェストも説明もなしに「この記事を読め」とシェアする人。タイトルに惹かれてクリックすると、1ページ目は読めるが、2ページ目以降は「登録しないと読めません」「続きを読むには有料登録が必要です」などとなっている記事をなんの説明もなくシェアする人だ。読む側にとってはいい迷惑。こういうことを無意識にする人は、明らかにネットリテラシーが、他人になにかすすめることができるほどに達していない、ということがわかる。こういう人は無免許運転のドライバーと一緒で、これは自覚のない暴走行為と同じだから、この人がするシェアなんかをクリックしてはいけない。クリックしないためには友人登録を削除して見えないようにするのが一番だ。こうやって、暴走行為をする人は、知らないうちに、友人を減らすことになる。シェアする人は、自分が見えているページが他人にも見えて当然だ、と思っているが、そんなことはない。こういう人にならないためには「以下の記事はXXの登録を済ませた方には読めますが、そうでない方には読めません。すみません」という、冒頭の一言があれば解決する。

【他人を意識できないおこちゃまはネット空間のガンである】
要するに、どの例もそうなのだが、自分以外の他人について、興味がない人。自分と価値観の違う他人への配慮がない人なのだ。だから、自分と違う価値観や生活をする人が見えずに、そういう人とSNSなどで交流しようとすること自身が間違いなのだが、そういう自覚がないから、無意識にシェアする。結果は本人の評判を落とすものをシェアして大顰蹙を買う。しかし、その顰蹙は本人には届かないので、静かに人が離れていくだけだ。ぼろぼろ、ぼろぼろと離れていく。ネットもSNSも他人との交流の場であって、そこには「自分」だけではなく「他人」がいる。その他人への失礼にならないよう、無意識であってもそういう行為は許されない、と知っておくことだ。他人から「失礼」の指摘を受ければ、それを謝り、治す、というコミュニケーションも不可欠なのだ。他人に対して無意識に行われた失礼に対してなにもしなくて良いのは、3歳以下の子供と認知症の老人くらいなものである。前者は社会教育が不完全であるから仕方がないし、問題を起こした責任を取るための存在として親もいることが多いだろう。後者は許されるわけではないが、年老いるのが当たり前の生命においては、どうしようとしてもできることはないからだ。いずれにしても欠けているのは「他人への当たり前だった配慮」である。これはコミュニケーションの基本である。

【Googleの検索結果も人によって違う】
現在のネットでは、Googleの検索結果の画面も人によって違う。だから、同じ社内でも「XXで検索してみて、その3番目のやつね」なんて言うコミュニケーションは成立しない。違うものが表示されていることもいっぱいあるからだ。これは現代のネットにおいて、非常に基本的なことであるにもかかわらず、それはあまり知られていない。これは、その人のペルソナ(仮想の人格)を、Googleがネット上にデータベース化していて、検索結果などの表示も、普段、その人が見るWebページなどの情報を元に、その人に合ったものを表示する、という仕組みになっているからだ。これはFacebookなどでも当然やっている。ネットの巨大企業などが裏側でやっていることは、明確になにをしているかを一般には知らされていないので、通常はわからない。しかし、それをわかって、他人とコミュニケーションし、他人に失礼にならないようにするのが、現代においては最低の「ネットリテラシー」なのである。このネットリテラシーの欠如には、ちゃんとした情報を大きく流さない、ネット巨大企業の罪も当然ある。

【ITは簡単ではない。しかし「簡単です」と騙して買わせる】
ネットは現在は非常に複雑な仕組みで成り立っており、ちょっとやそっとの勉強でわかるものではなくなっている。資料は探せばあるが、その探し方さえ、普通の人はわからない。専門家でさえ、その全てが把握しきれず、それぞれの専門領域の部分を知っているだけであり、隣接領域については、素人であることも多い。「スマホを使う」というのは、エンジンの製造工程を実際に知らない人がクルマを動かすようなものだ。それでもなんとか使えるが、一度でもトラブルが起きると、お金を払って専門家になおしてもらうほかはない。使うノウハウはあるが、それだけであって、その人がその技術を使っているからといって、その技術の全てをその人が手にしているわけではない、と言う事実を忘れている。そして、それを忘れさせることによって、自分のわからない複雑なものに、どんどん、お金を使わせるのが、ネット企業という詐欺師のビジネスである、と言い切っても、あながち、間違いではないだろう。

それがインターネットという伏魔殿である。あなたはその中にいるのだ。

 


Facebookがどうやら勝手に友人申請しているかもしれない件

このところ、Facebook界隈で話題となっているのが、「Facebookが勝手に友人申請をするらしい」という件。

私もFacebookで友人申請した覚えの無い方からの「友人申請承認しました」というメッセージがあって、はじめてその事実を知ることが何度かあって、Facebookを疑っていたし、今も疑っている。なぜなら、そういうことをすることがある、と、Facebookは事前に友人申請をする本人には一切知らせることがないからだ。つまり、本人としては「予期せぬシステムの動作」ということになる。自分の知らないところで、自分がした覚えのない行動を勝手にシステムがする、というのは、いくらなんでも「横暴」との誹りを受けて当然だろう。

ただし、この話は以下の可能性もあるので、気をつけておいたほうがいい。前記のことも含めて全ての可能性を書いてみよう。

  1. 最近はFacebookが勝手に友人申請することがある。
  2. 本人の操作間違い。
  3. 本人の行動にもともと一貫性が失われている(認知症になった可能性など)。
  4. 本人ではなく他人(友人や相方、子供、ペットなど)がやった、という可能性。ちょっとトイレに行っているあいだに、にゃんこが「Enter」連打、とか。
  5. 悪意のあるアプリなどが悪さをしている場合。

いずれにしても、自分の過失である場合もあり、私の場合はした覚えのない友人申請からのレスポンスのメッセージには、丁寧に以下のように受け答えをしたうえ、なってしまった「友人」を削除することにしている。

「この都度は、一面識もない私からの突然の友人申請、驚かれたと思います。私も驚きました。なんらかの間違いがあったために、友人申請がされた可能性があるので、大変にお手数ですが、友人のリストから私を削除していただけないでしょうか?私も、貴兄の友人を削除いたしますので、よろしくお願い申し上げます。」

誰とも知らない人と知らないうちに友人になろうとしていた、というのは、それがシステムの問題であるにせよ、自分が間違ってしたことであるにせよ、非常に問題がある、気持ちの悪いことである、ということは言うまでもない。また、その後の処置はできるだけ丁寧に行いたいものだが、この数が毎日増えていくと、丁寧な受け答えはできなくなってしまうかもしれない、という危惧はないわけではない。

こういったトラブルへの対処は、それでも丁寧に行いたいものだ。システムの向こう側にいるのは、それでもあなたと同じ人間なのだから。

 


「デバイス独立」な個人通信の普及

最近は「デバイス独立(Device Independent)」な個人同士の通信が普及してきた。要するに、LINEとかFacebookメッセンジャーのことだが、最近は電話もそうなってきていて、私も「IP電話」を非常に良く使っている。デバイス独立の個人間通信の良いところは、それが電話機であろうがPCであろうが、同じ電話やメッセージを受けたり送ったりできる、という利便性にある。LINEはこの「デバイス独立」の流れから多少離れていて、スマホを取りかえるときは、そのデバイスの持つ(あるいは関連付けられる)電話番号に紐付けをしないと使えないようになっている。LINEの違和感は、この「デバイス独立」を守っていない、というところにある。根本的にネット時代の個人メディアとして、問題があるのだ。

デバイス独立は、これからの通信の流れであることは言うまでもないが、デジタル時代によくあった通信方式であることは論を待たない。思えば、スマートフォンやタブレット、携帯電話で使っている「SIMカード」も、本来はデバイス独立のための方式だったが、それが通信キャリアに骨抜きにされてしまい、前近代的なメディアとしての電話しか日本では普及なかった。しかし、今日現在、多くの人がFacebook messengerやLINEで私のところに電話をかけてくるようになった。時代は変わったのだ。

この「デバイス独立」という通信の思想を持つか持たないかで、これからの現代デジタル通信の普及の度合いが違ってくるだろう。いつまでも世の中は同じではないのだ。

 


Faceを思わず見てしまうこと

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Facebookを見ていると、まさに「Face」ばかりの記念写真がすごく多い。ぼくは自分を撮るとか、撮られるのがあまり好きじゃないので、そしてそれを公開されるのも好きではないので、顔をあまり出さない。まぁ、他の人と一緒に撮られるのはしょうがないな、とあきらめているけどね。

でも、自分の顔の写真を自分で見るのとか、偉い人と一緒にいるところの写真とか、って好きな人多いよね。「オレはこんな偉い人と一緒なんだぞ」みたいなね。ぼくが一番嫌いなのがそういう写真なのね。虎の威を借るというかなんというか、自分を実力以上に見せたい、っていうところ、別の方面から言えば、自分に自信が無い人がやることだよな、それは、と思うわけですよ。大人になってそれやってるのって、すごい恥ずかしいことだよね。と、ぼくは思うから、やらないのね。

ついでに言えば、食べ物の写真、宴会の集合写真、ってもう見飽きたよね。そういうのは見ないでさっさとスルー。おれはこんないいもん食ってるんだぜ、みたいなのって、その人の卑しさみたいなのがにじみ出ていて、僕としては「あぁ、この人の醜いところを見ちゃったなぁ、ごめんな」という感じになっちゃうのね。ましてやそれを自分で出す、ってのは、そういう神経が信じられない。毎日の自分のための記録でいいんじゃないのかねぇ、そういうものは他人に見せるもんじゃないよ、と思うわけです。そういうものを他人に見せているとき、本当に他人に見えるのは、普通は、その映像そのものじゃなくて、それを見せたい、というその人の心根なのね。なんのためにそういうことをあんたはしているのか、っていう、そこを見られているのね。

で、そうじゃない食事の写真とか、ってのもある。でもそれは映像を専門にしてきた人が自分の生き様の一部として、言い換えれば作品の一部として見せているものとか、その連続が不思議と芸術というものに対するその人の考え方なんかを表現するものになっているとか、そういうものもあるのね。素人がこんないいもん食べたから見て!というのと、それは全く違うんですよ。自分の生き様、自分の命をかけた表現の、それは一部なのね。自分のいのちの記録が、自分の表現が、そこには込められているのね。それが見えるから、それが普通の食事の写真の連続であっても、共感がそこにできるの。そういうものなんだよ。

Face(book)を見ると、一発でその人がわかる。その写真の撮り方やどの写真を見せるか、という選択、そういうところに、その人の人間性がにじみ出てくるのね。ぼくの好き嫌いで言えば、だけど、自分という人間に自信が持てない人の自撮りと、自分というものに自信のある人のそれは、ぜんぜん違う写真表現なんですよね。で、ぼくはやっぱり自分に自信を持っている人が好きなのね。