日本的な「視野狭窄」でITを語る。とか。

いやもうね、「人工知能やるならPythonしましょう」って、それ、瑣末な話ですよね。それって、実用的でないし、お金にもならない。違うんですよね。人工知能の基礎となる技術のパーツは大方なんとかできていて、Pythonのインターフェイスでやると比較的簡単に試せますよ、ってことですからね。重回帰分析とかライブラリがしっかり揃ってるし、今やメモリも安くていっぱい使えるし、CPUの演算速度も速いから、インタプリタでもなんとかなっちゃうよね、といういい時代になりましたよね、でしかないわけですよ。

かつての「製造業日本」では、たとえば半導体のことを米国からパクってきて、それを実現するにはあれが必要、これが必要、なんて集めて、おんなじものができました、でしょ?それをうまく洗練させれば、製造業としては基礎にお金と時間をいかけていないぶん、身軽に先に行けたわけですね。でも、人工知能って、そういうもんじゃないですし、だいたい「人工知能」ってものが、今までのコンピューターと別にあるわけじゃないんだな。コンピューターが日本に入ってきたとき、それは「人工頭脳」って呼ばれたわけですよ。「人工相撲」じゃないよ。「人口頭脳」ね。名前から見てわかるだろうけどそれって「考える機械」って言われたわけね。今の人工知能となにが本質的に違うの?全然違わない。

当時と今の違いは「CPUの演算速度が劇的に早くなったこと」「メモリ空間やストレージもまた、容量あたりの単価が劇的に安くなって、読み書きのスピードもまた劇的に速くなった」なのに「値段が劇的に安くなった」ってだけですよ。つまり、コンピュータは登場したときから「人工知能」を目指していたわけですよ。土光敏夫さんはメザシが好きだったらしいけどね。

まぁ、それはともかく、今言っている「人工知能」ってのは新たなテクノロジーとして「人工知能」ができた、っていうわけじゃなくて、みんなここ目指していたよな、やっと安い値段で庶民の手にも入るようになってきたんだな、ってことね。いいことだと思うんだな、ぼくはね。

日本的な製造業のやり方ではなくてさ、そろそろ変えていく時期だと思うんだよね。「なにを作ったら売れるか(なにをみんなが欲しがっているか)」が自明だった時代は、言われてるもの作れば売れた。経済も潤った。でも、今は「なにを作ったら売れるか考えましょう」という時代なんですよね。そこんとこに、注力してほしいわけですよ。そういうお仕事のパラダイムの転換が必要なんだと思うのね。

 


「資本主義の終わり」の裏話?

NHKの番組でもやったようだが、資本主義が終焉に向かっていることが意識され始めている。この資本主義のゴールというものは、いかなる地球上のものにも限界があり、無限の成長が望めないものである以上、必ずある。限りない拡大、というのはありえないからだ。

そしてそのゴールへの近道を作ったのは、ITである。かつてぼくは、「社会というものが時間と共に変化するものであるとすると、ITとはその変化の速度を速める触媒である」と言ったことがある。その頃はその意味は誰も気がつかなかったし、わかりそうな人にしか話さなかったけれどね。そしてその触媒はその効果を事実として実現してきた。

もともと、ITはパーソナルコンピューターをを始め、学生運動の時代の米国西海岸のカウンターカルチャーの人々が作って来た、という歴史がある。スティーブ・ジョブズ然りだが、ビル・ゲーツは思想的にはジョブズの子供だった。ヒッピー文化などは資本主義の否定に熱心だったのは良く知られているだろう。彼らは、資本主義をいかに終わらせるかを考え、出した答えのひとつがITである、と、ぼくは2000年の少し前に気がついた。訪れた米国西海岸では、バークレーのUNIXの立役者の一人とも会った。全員が全員、カウンターカルチャーの出身であって、多かれ少なかれ当時の学生運動の中で育った人たちだった。何故だろう?とぼくは考えたのだ。

彼らは、資本主義社会が非常に単純な「富の拡大」という動機で動いており、その推進はより動きの速い者が勝つ「競争」の原理で動いていることがわかっていた。この競争の勝者となるための強力な道具は麻薬と同じである。これを彼らに与えれば、資本主義の亡者となった人間社会はこれを大量に受け入れざるを得なくなり、レミングの群れの如く、群れの終焉たる奈落まで、従来以上の猛スピードで突っ走る。そう考えた。

そしてゴールは、その種を産み落とした後、わずか50年も経つか経たないうちに(実際は20年くらいだったと思うが)、目の前にやって来た。シナリオ通りであることはあるが、効果はてきめんで、早すぎたなぁ、と、彼らも感じているだろう。

ぼくは、一浪して入った大学の中でさらに1年留年して社会に出たが、社会に出る時に、アルバイトをしていた教育系の出版社の社長に「入れてください」と頭を下げてお願いした。社長はOKした。しかしそう言ってから一晩寝ずに考えた。ぼくのいた学科は工学部でコンピューターを扱っていた。そして翌朝、ぼくは社長に「すみません。コンピューターに可能性を感じてしまったので、やっぱりここには就職しません」と言った。社長は激怒して「お前は二度とこの敷居をまたぐな!」と追い出された。数年後、ぼくはコンピュータ言語の本を書き、最終的にはそれが100万部売れた。そしてその会社を再び訪問した。社長は歓待してくれた。嬉しかった。

まだインターネットは無かったから、データ通信はこれから、という時代だった。そしてぼくらは、インターネットを日本に持ってきた。データ通信は世界を変える、と思っていたから、それに注力した。会社も作った。

超高速で安価なコンピュータと超高速で安価なデータ通信は、実際に世の中を電光石火で変えていった。それが資本主義社会の推進という名前の崩壊に向かう触媒として実際に機能を始めた。それが軌道に乗ったとき、自分の作った会社も辞めたのは、自分の会社の社会的な役割が終わったと思ったからだ。それは簡単に言えば、資本主義の崩壊への激しく速い歩みを促した初期の役割を終えた、という感じがしたからだ。

当然だが、私の周囲にいる人はほとんどそれが分かっている人はいなかった。ITは資本主義社会を短い時間で劇的に変えていき、そのゴールが見えてくるところまで来た。人間が人間以上のスピードを持つ道具を手に入れ、麻薬みたいにそれに取り憑かれ、虜になり手放すことができなくなった。マイナス金利が発動されたとき、「それ」は誰の目にも明らかになった。

カウンターカルチャーのシナリオはそろそろ終章に入った、とぼくは思う。

 


ITの業界の現場と「一般人」から見えるもの

どんな専門の業界でもそうなのだとは思うが、内部から見ている人間と、それを外から見ている人間では、その中間地点にある物事の見え方がまるで違う。どちらが悪い、どちらが良い、ということではないのだが、どちらが認識不足かというと、内側から見る人と、外側から見る人の認識が違うのは当たり前、やっぱり内部から見ていた人のほうが、中身は良く知っている、ということになる。

最近の世界のプログラム開発の主流はオープンソースに変わってきた。ちょっと古い人だと、その世界がどう言う世界かわかっていない。それなのに、新しい人はオープンソースで開発をする。このギャップも出てきた。オープンソースでモノを作る時代になれば「バグ消滅曲線」とかそういう従来の「基準」が役に立たなくなることは言うまでもない。

たとえば、ルーターのような製品、Google Homeのような製品は、内部はオープンソースの塊で、それをいかに使うか、という技術は非常に大切になる。まずはどこにどういうオープソース資源があるかを知らないと、見積もりさえできない。世界の最新のプログラミング事情を知らないと、全く役に立たない。IoTも今やオープソースの塊だから、やはりオープンソースでの開発をやったことがないと、全くできない。

ちなみにオープソースを「プログラミング技法」などと言っているあいだは、全くこの流れについていけないと思って良いだろう。オープソースは現在のハイテク技術の根幹を成す「ソフトウエア」の開発において、「技法」ではなく、それよりも遥かに重要な「思想・哲学」である。そして、それは実際に手にして触った者しかわからないものだ。しかし、これなくして、今日のITやIoT、人工知能システムなどは全く成立しない。IoTのプロダクト等を作るには、その思想を取り込んでいることが求められる。

この程度は作るほうの人間にとって必須の知識やスキルなんだが、ちょっと古いプログラミングしか知らない技術者が混じっていると、そこで、コミュニケーションがとれず、混乱する。数年以上前の知識しかない技術者や管理者はいるだけ開発の阻害要因であって、早く現場から消えてほしい、となる。プロジェクトの管理者の技術スキルは非常に重要で、プロジェクトの成否を分ける。正直なところ、プロジェクトマネージャレベルでさっさとこういう話ができないで「教えてくれ」なんてのは論外だ。それだけでプロジェクトの足を引っ張っている、ということになる。そして、それを自分ではたいてい気が付かないから、始末に悪い。

さらに、こういうプロダクトを作る会社の社長などでも、全く内容についていけない、という人も論外だ。プロジェクトの進捗や、うまくいかないときになにが足りないのか?などの見識が即座に持てないからだ。技術者としては、意味がない人と仕事をしてもプロジェクトは失敗するだけだし、得るものもない。日本流のマネジメントで、こういう世界は回っていくわけがない。それでも流行っているから、ということで、やろうとしているのが、日本の役所とか古い技術職だった人たちの塊だが、正直なところ、その全てが時代遅れになっている、と言って間違いはない。

現代のプログラム開発、IT/IoT製品開発は、明らかに国際的な開発スピードの競争であって、そこに、日本的なのんびりしたジェネラリストが入り込む余地は全くなくなっている。

いまは日本が一番ではない。技術もお金も日本は中国などの後についていっている、金魚のウンチみたいなものだ。日本企業のお家芸、なんて言われていた液晶ディスプレイ技術もそうだ。今や8Kは中国の2社が独占と言っても言い過ぎではない。

まずは現状を見据え、できるところから、できるだけ新しい世界のトップクラスのやり方を真似るところから始め直さないと、日本のITはやはり危うい、と言わざるを得ない。

 


「IT」についての個人的な歴史

Roppongi Hills / Tokyo

Roppongi Hills / Tokyo

ITの仕事は自分はいつはじめたんだろう?その仕事をはじめたときは「IT」という言葉はなかった。大学生のとき、目の前にあったのは、アナログ電子回路、デジタル電子回路(当時は「パルス回路」という分野もまだあった)、そして、メインフレームの大型コンピュータ、まだなにができるともわかっていなかったパーソナルコンピュータ。そう、その時期はパーソナルコンピュータの出始めの頃で、そのときはみんながこんなに使うとは思っていなかった。とにかく、「これが世の中を変えるかもしれない」というワクワク感が、ぼくとその仲間にあった、という意味ではバンドをやっている人たちと、感性は似ているんだろうな、と、思う。気がつけば、世間サマとか大企業がぼくらのはじめた技術に注目をはじめていて、ぼくらはその最先端に立った。

今でこそ、コンピュータと通信というのは、切っても切り離せないものだが、ぼくらがコンピュータをはじめた当時は、「コンピュータ」と「データ通信」は別の分野だった。もちろん、インターネットはぼくらがそういうものをはじめた後から出てきた。毎月のように米国に行って、今のインターネットの技術を見てまわり、聞いてまわった。あのとき、いったいいくらのお金を使ったのか?今では想像できない。ぼくらもアイデアを出し、それは米国の研究機関やエキスパートたちのそれと融合した。

ぼくらは「IT」という言葉ができる前から「IT」をやっていた。新しいものは世の中に認知されていないから、ろくにそれに名前もなかった。ぼくらは自分の身体で「新しいものをする、ということはこういうことだ」ということを学んだ。新しいものには名前がなく、それが世の中にあることなんて、普通の人は想像もつかない。ましてやそのときは名前もついていないようなものが、世の中を変える、というぼくらの「実感」なんて、他の多くの人に、わかりようもなかった。

今思えば、ぼくらは技術者でもなければ研究者でもなかった。それは芸術家に近かった。とにかく「それ」が面白かった。のめり込み、寝食を忘れた。しかも、なにをしているのか、一般の人にはわからないし、それまでの電子回路とかの技術者にも、見えない世界だったんだ、と今になって思い出す。その時代、ぼくらはそのことを実現する哲学と人並み外れた集中力をみんな持っていたことだけは確かだ。

今思えば、なんというとんでもない世の中の流れの渦に巻き込まれていたことだろう。

気がつけば世の中全部がITなしでは動かない時代に切り替わった。ぼくらがかつて夢中になってやっていた、名前もわからない「なにか」は「普通のこと」になった。これが時代の変わり目というものか。これがその時代の変わり目を作るということか。それは、命がかかった「革命」に近いものではあったが、革命ではなく、革命以上に世の中の動きを根底から変えた。ぼくらはその真ん中に、図らずもいたのだ。そうしようと思ってそこにいたわけではない。なにかの偶然と、言葉にできない「カン」、そして「適性」があったのだろう、と、今は思う他はない。

しかし、この「経験」は、他の人ができない、稀有な経験ではあったが、それが後で役に立つ経験でもない。一生のうちに、何度も同じ局面なんてありそうもないほど、それは大きな変化だったからだ。と、言うのが最近わかってきた。

ああ、そうか。自分のコアにあるのは「芸術」なんだな、と、最近は思う。技術ではなくて、研究でもない。

英語で芸術のことを「Art」と言う。「Artificial Intelligence」は人工知能。「Artificial Color」は人工着色料。「Art」という単語は、「人間のすること(作ったもの)」というような意味がある。漢字で表現すると、「行」ということか。そうか、自分のやっていたのは「Art」だったんだな、と、納得するしかない。

ぼくの実感はこうだ。「Artが世の中を変えるのだ」。


ITの目的は「効率化」。しかし効率化でない場合は「新事業開拓」。

AKIHABARA

ITの目的は基本的に「効率化」である。たとえば、ある工場でコップを作っているとすると、人手+工作機械では1時間に100個作れる。しかし、「人手+工作機械+IoT」では、1時間に1千個作れる。だから10倍売れる、というようなものだ。数字はもちろん作るものや業種によってまちまちだが、基本はそういうことだ。これはセールスでも言える。「X日間に客まわりをY件して、Z個の商品が売れた」状態を、+メールその他のマーケティングをすることによって、Z+α個の商品が売れる。もちろん、これは、かけた投資と得られるリターンの差が大きければ大きいほど良いわけだが、IT/IoTの本質というのは、基本的にこういうものだ。

「ITでこれまで考えられなかった新規事業を起こす」のも、「全く違う事業ができる」場合と「効率化によって新たな利益が生まれる」という2つの場合がある。また、「効率化によって新たな事業が生まれる」場合もその新利益分を切り離して違う事業にして、「新事業」と称している場合も多いわけだが、このあたりは切り分けて考えるようにするべきだろう。

「効率化」を行っていない企業と「効率化」を行っている企業では業績に差が出て当然である。それはやがて埋めきれない差となって、「非効率な企業」を淘汰していく。これは「周辺の状況の変化」である。ゆえに、どこか一社が「効率化」を進めれば、他も追随して行かざるを得なくなるのだ。

一方、ITを使った「新事業」は、「ITがなければ事業として成立しなかったものを事業にする」ということだ。それは今まで「見たこともない」ものになるから、新しいものを事業として行うときは、「これまでの方法」は役に立たない。強いていえば、企業とは「お金」ですべてが評価される存在であるから、会計・経理の業務だけが、旧来からある体制を引き継ぐことができる。旧来の常識の範囲内にいる人にとっては、「なんだかわからないけど儲かっている」ということになる。

「旧来事業の効率化」なのか?それとも「新事業」なのか?

ここに、ITを使った事業の2つの大きな違いがある。「自分のやっている事業はこのどちらなのか?」は十分に意識して始める必要がある。

 


エンターテインメントとIT

先日、きゃりーぱみゅぱみゅが「ARを使った舞台」をやった、と話題になった。リアルタイムで、きゃりーの動きをスケルトンで大画面に投影する、というものもあって、なかなか好評を得た、とのことだ。「AR(仮想現実)」の技術は、やっと最近ステージで使われるようになったが、実際には、2006年くらいから研究はされていたものだ。一方、レーザーを使ったホログラムの技術は、これまた歴史はそれなりに古いが、これもライブのステージで使われるようになって話題となったのは、2013年の韓国のPSYのホログラムのステージがあったからだ。2013年の時点で、これだけ「見せる」ハイテクを使ったステージはなかなか世界的にも珍しかった。いずれも、近年のPCの高速化・大容量化などの恩恵があってこそのエンターティンメントだ。

きゃりーのものも、PSYのものも、ライブだが、やはりなかなかのものになっていることがわかる。見る側からすれば、どうもPSYの4年前のものに比べて、きゃりーのほうは少し見劣りがする、という感じが個人的な感想なのではあるが、これはテクノロジーというよりも「作り」の問題として、お金のかかり方もかなり違う感じがある。2013年から2015年、私が韓国の大学で教授をしていたときには、韓国で本場ブロードウェイのCATSも来ていて、まさか韓国で本場のCATSを見るとは思わなかったが、しっかり見てきた。

要するに、韓国の景気は「悪くなった」と言われていたものの、実は日本の現状から比べると、はるかに良かった。隣に中国という巨大な市場があって、その市場との交易が大きな経済の動きを作っていたからだ。今は韓国ではTHAADの問題などで、中国との交易がうまくいっていない、と言われてはいるものの、いぜんとして、韓国の工場で作られた材料などの中国需要は減っていないどころか、増えているところもある。要するに、民間の経済と政治は別なのだ。

ここしばらくの韓国は日本のかつてのバブル経済みたいな感じだ。スローダウンは始まっているが、それでもまだ現地に行くと日本よりも良い感じがする。

そういう事情もあってか、韓国のエンターティンメントは、実はかなりすごい。映画のアクションなどは、米国からわざわざ買いに来るバイヤーもいるくらいだ。ただし、ストーリー作りなどは苦手らしく、ストーリー作りは日本から教えに行っている方もいるとのことだ。

韓国のエンターティンメントというと、「LEDダンス」も有名だ。このダンスも実際に3年前に見たが、ライブではかなりの迫力だ。このリンクのXperiaのCMで使われているのは覚えている方も多いだろう。これは韓国のグループのものだ。LEDダンスは、踊り手の身体につけたLEDの制御を、無線を使ってコンソールで行うとのこと。と、調べたら、Xperiaのものは、日本のグループのものらしい。ちょうど、韓国と日本では同じ頃に始めたみたいですね。

いまどきの韓国のエンターティンメントは、日本に比べて、お金がかかっている感じがする。

 


最近のITの業界と古いITの業界のギャップ

最近、かなり年齢の行ったIT業界の人とお話をすることがある。一方で、ついこの前までシリコンバレーで仕事していました、という方にもお会いする。一番感じるのは、ITの仕事というものはどういうものであるか?という考え方がかなり違う、ということだ。世代のギャップがあるんでしょうね。

世代が違う。まず「仕事」「ビジネス」に対する考え方や姿勢が違う。そして、それに対する姿勢も当然違う。だから、これらの人たちを混ぜると、一向に話が進まない。お互いに何か違うな?と思っているんだろうが、それがどのように違うのかをお互いに言葉が足らずに時間が過ぎてしまう。

旧世代は。ソフトウエアを書くことが「仕事」、ハードウエアを設計して作ることが「仕事」そして、それに対して対価をもらうことが「ビジネス」だと思っている。しかし、新世代は違う。ハードウエアやソフトウエアは、それにどのくらいの期間でいくらかかるか?ということだけに関心があり、テクノロジーはお金を払えば手に入る、と思っていて、問題はそこにかかるお金以上のお金がもうかるかどうか?という仕組みを考えて動かすことが「ビジネス」であり、そのビジネスを成立させるものが「仕事」である、と思っている。

根本的に考え方、この世の中の捉え方が違う。

昔からコンサルタントと呼ばれる人がやっていることをやるのが、ITの技術者である、というように思っている。そこで、話が噛み合わない。どちらも大切だと思うのだが。

 


ITは「Fool Proof」を思い出せ。それが次世代のアプリを作る要になる

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最近のITは、どうも違った方向に行っている、とぼくは個人的に思っている。たとえばスマートフォンだが、スマートフォンは人類が初めて持った「肌身離さず持って動作している端末」である。各種センサーも揃っていて、良く知られている「カメラ」「GPS」のみならず、地磁気を利用して傾きとかを検出するセンサー、揺れを検出するセンサー、などなど、私達が普通知っている以上の多彩なセンサーを搭載している。しかも通信機能も必ずついている。「各種センサー」「通信機能」のほか、住所録のデータベースなども完備している。クラウドで背後には「人工知能」まで備えている。これでなにが不足なのか?というくらい、センサーなどの機能はこれでもかと言う種類が接続されているのが普通だ。

つまり携帯端末の「手足」になる部分は、間違いなく、現在考えられるほとんど完璧なものが揃っている。言い方を変えれば「スマートフォンは自分以上に自分を知っている存在」である、とも言える。

自分以上に自分を知っている「スマートフォン」は、なにかに似ている。深夜に飲み会から帰宅して爆睡しているぼくに、「仕事に行く時間でしょ!」と強引に起こしてくれる、見方を変えれば煩わしい「母親」。危険を事前に察知して、家族を大きく包んでくれている「父親」。人間関係で悩んでいるときに、場末の飲み屋街であれこれとアドバイスをくれる「友人」。スマートフォンとは「母親、父親、友人」になれる。そういう潜在的な能力を持っている。スマートフォンとはそういうものでもあって欲しい、とは思わないだろうか?それは「道具」ではない。人間のようなものだ。

今から20年以上前、人間の身の回りのことを機械にやらせる、ということが流行ったことがあった。これは米国から来た流れである。当時は「オートマトン」などの呼び名でそれは呼ばれていた。一方、今私達が普通に使っている腕時計、これはほとんど「防水」である。「防水」のことを英語では「Water Proof」という。そして、この「Proof」という単語を使って、「サルでも使える」ものを「Fool Proof」と言うのだ。この「Fool Proof」」は多くのところで私達の周囲に広がる気配を見せていた。

しかし、ある時点から「Fool proof」の文字が私達の前から消えた。コンピュータ、特に個人が使えるPCの出現あたりからだ。PCそのものがまだまだの性能であった時代、また、手軽で安価なセンサーも整っていなかった時代、コンピュータは高いお金を使って、金持ち企業が使うものだった。コンピュータやスマートフォンはそれを持つ能力や努力によって、はじめて役に立つものになる、というのが当たり前になった。たとえば、スマートフォンが起動すると、次にFacebookを起動する。Facebookが起動したら、今度はFacebookを使うために、Facebookの使い方を訓練しないといけない。なぜ、こんな便利なものが揃っている世の中になったのに、まだまだ「努力しろ」と、ぼくらは言われなければならないのか?

なにかおかしくないか?

たとえば、あなたが街中で一人、突然の病気で倒れたとしよう。周囲の人はもちろん気がつくだろうが、その周囲の人もいなかったら、どうしようもない。スマートフォンはこんなとき、あなたの身体の動きが全くないことを検知して「大丈夫ですか?」と語りかけてほしい。そこになんの反応もなければ、スマートフォンは自らの通信機能で、あなたになにかが起きたことを、警察や肉親、友人に、自らの持つ電話帳から電話などをしてほしい。だって、スマートフォンはそういうことができる「センサー」「通信機能」「CPU」をみんな持っている。できないわけがない。

そうは思わないだろうか?

今のスマートフォンのままでは、私達は永遠に新しいものが出る度に訓練を重ねていかなければならない。それが「利便性」なのだろうか?

これらの疑問から、私は韓国の大学の教授でいたとき、この2つのスライドをまとめた。

私が考える、これからのスマートフォンとは、こういうものであってほしい、という内容だ。

スマートフォンをショップで買うと、何の設定もなく、あとは胸のポケットにそれを入れておくだけで、必ず役に立つ。自分で成長してあなたを助ける。そういうもので、スマートフォンというのはありたい、と思うのだ。いま、ハードウエアのテクノロジーとしてのそれは準備万端である。あとはそういうソフトウエアを書くだけだ。

ぼくらは再び「Fool Proof」に戻らなければならない。それが人間を助ける存在としてのITのあるべき姿だろう、と、思うからだ。